終戦記念日、いまだに恨む父の戦死、私の反戦思想の原点

 今年の終戦記念日、マスコミはナベツネが『戦争責任者

軍国主義たちに厳格な処罰があるべきだ』と述べたこと

をこぞって報道している。ナベツネ渡辺恒雄、94歳、読

売新聞グループの大ボス。

 私もこのようなナベツネの意見に同感どころかそれ以上

の恨念をもって持っている。処罰以上の処罰が必要だ。そ

れというのも父が戦死しているからだ。今だに、軍国者よ、

父を返せ、と叫びつづけている。

 父は小学校2年の春に召集され、そのまま敗戦、その後

戦死していたことが知らされた。父その時32歳。父は終戦

直後に召集された。『自分まで召集されるようでは、この

戦争は負けだ』と語ったことを覚えている。

 私はこのとき小学校2年になったばかり。私は父に聞いた。

『戦争に行くのいやなら逃げれば?蔵王の山なら逃げれる』

と。父は言った。『おれも逃げたいが逃げればつかまって、

死刑になるんだ。大丈夫だ、死なないようにずるくなるか

ら』

 となり近所のお父さんやアンちゃんたちはすべて召集さ

れたが父だけは召集されなかった。それというのも、今

思えば、父は宮城県の産業試験所の技師だった。農業指導

員。つまり地方公務員。だから召集されない特権があった

のだ。だから敗戦直前、召集されると『オレにまで召集令

が来るようではこの国もおしまい』ということだった。

 父の死ほど悲しいことはなかった。まさに気も狂いそう

だった。いや、実際に狂っていたのかもしれない。父の死

を信じなかった。戦場から逃げて行き、今は蔵王の山中か

仙台に住み着いており、必ず帰ってくる、と思った。朝、

目がさめると今日こそは父はかえってくる、と信じていた。

 しかし中学生にもなると、もはや、父の死は疑いようも

なかった。その代わり、一体、だれが父を殺したんだ?!

という犯人捜しが始まった。まず反米思想。中学の英語

の時間、アメリカに幸福そうな家庭生活の描写に反発した

し、英語そのものが嫌いになった。

 高校になると軍国主義戦争の歴史に興味を示し、反戦

翼に興味を示した。今の私の反戦平和原水爆廃絶思想は

このあたりが原点であった。大学でも同じ左翼自治会に

属した。当時の、一緒に反戦平和の左翼運動の同志たち

のほとんどはその後『改心して』左翼運動から去って行

って、ナベツネに心酔したのも多い。しかし、私だけは

しつこかった。決して父を殺した、真の戦犯を許すこと

はできなかった。

 (今日も暑くなってきました、続きはまた後で)

 クーラーのスウィッチを入れたので、また続きを書く気

になりました。

 34歳ごろ早稲田大学理工学部の教授になったが、ココロ

の底で固く誓った。役職はこれでおしまいだぞ、これ以上

の役職を求めたら自分の反戦平和のイデオロギーを捨てざ

る得なくなる。それでは父の死への恨み心に背くことにな

る。早稲田大学の教授なら平気で教員組合の書記長でもや

れるから。早稲田はいい大学だった。

 一切の文部省や政府の役職を求めない。私立大学であっ

ても学長などの役職はやらない。つまり勲章まがいのモノ

を拒否すること。事実この時の決意どうりのその後の人生

だった。父の戦死の恨みに背くことはなかった。

 その代わり、その反動なのか。息子 大槻東巳、娘

大槻奈那 は政府の審議会、東京都の委員会などに出ま

くっている。多分彼らは祖父の死の恨みなどほとんど

ないのだろう。

 もちろん、この私の反戦平和のイデオロギーを嫌う役職

でなければなんでも積極的に飛びついてきた。著書執筆や

編集などは大歓迎だった。物理の高校教科書も反戦平和と

違和感がなかったから引き受けた。結果、著書の数、これ

まで165冊。

 もちろん各地の講演も引き受けた。ひところは年60回

もの講演をやった。北海道から沖縄まで。テレビ、ラジオ

もでまくった。週16回ということもあった。大槻は何故

あんなに本を書きテレビに出まくるのか?あれでは文部省

もいい顔しなぞ!と文部省の高官が言ってたという噂が聞

こえてきた。この時私はカンラカラカラと笑った。

   (熱中症にならないように、ここで中断)

  明日につづきます。大臣4人も、靖国神社参拝、軍人高官

を賛美して、お金を奉納して感謝の言葉、ナぬ!!