つれない読者たちよ、ささめ雪にノーコメント!

 昨日、つまり11月26日、

   演歌、細雪(ささめ雪)

というタイトルの記事を書きました。五木ひろし

の演歌

  泣いてあなたの背中に投げた

  憎み切れない雪の玉

と。

 この記事は多少涙ぐんで書きました。さぞ読者の

皆様も泣いてくれるかと。

 ところがなんとコメントも皆無、読んだという

星印も皆無。つまり私の涙の文章は見てはくれなか

った、よんではくれなかった、そして一緒に泣いて

はくれなかった?!

演歌 ささめ雪

今朝早朝に目がさめてラジオをつけたら

五木ひろしのささめ雪(細雪)の歌が聞

こえてきた。私はもともとジャズや演歌

は嫌いだからすぐ消そうとしたがふと聞

いていると歌の文句に気が惹かれた。

  泣いてあなたの背中に投げた

  憎み切れない雪の玉

  。。。。。。

  おとこの嘘を恋しがる

  抱いてくださいもう一度

  外はささめ雪

 芸術は生と死を表現しなければならない。生

の神髄は恋である。つまり恋と死を表現できな

いものは芸術ではない。音楽は一次元なもの、

絵画は二次元的、文学は多元的なものだから

音楽の芸術性は劣る。例えばジャズに芸術性

などほとんどない。

 私は演歌もジャズに近いと長い間信じてきた。

ところが今朝、五木ひろしのささめ雪を聞いて

衝撃を受けた。メロディはともかくその詩がと

て良かったのだ。良かったと言ってもそんなに

文学的に高尚なものではないが素人のつぶやき

としてみれば心にせまるモノがある。

   不幸つづきの女に似あう

   つかむそばから消える雪

   夢のかけらが散るような

   外はささめ雪

 

 

 

 

 

 

 

新宿末廣亭中席、みんなうまいが物足りない

 中席はオオトリ(最後の締めを語る落語家)が

   春風亭龍之介

でした。じつにそつがなくうまいしゃべり。それに

相変わらずうまかったのは   

   滝川鯉昇

 しかし12時から昼の部、それに加えて夜の部6時

ごろまですべて古典落語で現代落語は皆無。たしか

に前回書いたように現代落語は自分で考え練習しな

ければならないからそれだけ負担も大きい。その点

古典は先輩や師匠にただただ教わったとうりをしゃ

べればいいのだから気楽である。

 本日の中席の6時間はすべてこのような演者だっ

た。しかも内容も先輩、師匠の言葉そっくり。それ

を崩したり面白く追加したりしない。皆まじめでお

となしい連中なのだろう。現代落語など怖くて手も

足もでない。さぞ師匠連中は扱い安かろう。

 たった一人でもよい。不良だが面白いヤツは出ない

のか?

 

東京はまったく不便、サイエンスカフェもやれない!

 急に思い立って東京でも那須でやってるような

サイエンスカフェを立ち上げようと思って中野区

区役所に電話した。『生涯学習課をお願いします』

と私。『そんなとこありません!』え?生涯学習

がないの?

 教育委員会に電話はつながった。サイエンスカフェ

那須での経験を話してこのようなものを主催したい、

と申し入れた。

 しかし担当らしい女性は『そんな場所、公民館などない

ですよ。』とケンモホロロ。え?公民館、ないの?それ

じゃどこで会合などやるの?
 分かりました。会場はこちらで見つけます。ただこの

会合の参加者募集を中野区の広報にのせてください。『

それはダメです。広報は区役所からのお知らせだけで

いっぱいです。』

 かくしてたかがサイエンスカフェ15人ぐらいの自主

的勉強すら東京ではやれないことが分かってがっくり。

やはり東京は私の住むところではないなあ!

 

 

 

久しぶりの新宿末廣亭、久しぶりの歌笑と鉄平

 どうせ3月まで新宿末広亭通いは上席、中席、下席

と100%の通いずめになるのだから、その日の出演

者などあらかじめ調べても意味がない。つまり『出た

とこ勝負』。

 ところがところがなんと!私の大好きな三遊亭歌笑

と林家鉄平が昼席の中頃に飛び出してきた。歌笑は8

0歳近いはずなのに若いし元気も良い。現代落語もう

まいし古典落語はピカ一だ。

 現代落語はとても難しい。日常的な家庭、職場、政

治、経済がからんでくるのでうっかりすると座が白け

てしまって大失敗となる。その点古典は簡単。長く、

他の先輩演者によって磨きあげられたモノだからだ。

もちろん古典はそれだけ他の演者と比較され優劣が

簡単に分かってしまう。

 歌笑はもちろん現代モノと古典モノの両党使い。

現代モノは三代歌笑、2代歌笑から受け継がれた

爆笑モノを持つ。これが彼の強みだ。

 新宿末広亭、また来週行くぞ!

 

7か月ぶりの大東京に驚き

 夏場の那須滞在も終わって久しぶりに東京に

帰りました。川口から首都高にのり、途中から

池袋線の高架に入ると大東京が開けました。

 東京タワーやその他のタワー、新宿の高層

ビル群、丸の内あたりの高層建造物など、さす

がは世界一の大都会の展望に思わずうなりまし

た。私も田舎者ではなくこの巨大東京の住人の

一人だったのだ!

 かくして我が家の近くの哲学堂を曲がって中

野区松が丘、もう我が家だ。ところがこれが二

度びっくり。道路が狭くバスがやっとすれ違え

る。私はバックミラーをたたんだ。すれ違うの

が怖い。

 みすぼらしいのは道路だけではない。道路の

両側の家家も平屋か2階の木造の古い家。バス、

いやバイクが突っ込んだだけでこの小家屋は崩

れそう。

 あの、先刻見た大東京の巨大ビル群はどこだ

ったのか。ああ、これが格差だなあ!

 

三太郎の日記、つづきのつづき

 日記というからにはその人の日常生活が書かれて

いるはずです。それが三太郎の日記にはまったくな

しです。何を食べ、だれと会い、どこに行ったか、

などなど。

 この日記ははじめから自分の哲学的分析、他者

との哲学的会話だけが延々とつづきます。察する

にこの哲学者は一日中部屋にこもり哲学的思考を

しているらしい。

 食事もせず、家族もなし、友人や親せきもなし。

ただただあるのは哲学思考。それも多くは自分自身

の哲学的分析。そんな分析など私個人に何の興味も

ない。これがアインシュタインが行った自分分析な

ら興味もあるがこの哲学者の自分分析などちっとも

興味がない。

 したがってもうヤメタ。