久しぶりの新宿末廣亭、久しぶりの歌笑と鉄平

 どうせ3月まで新宿末広亭通いは上席、中席、下席

と100%の通いずめになるのだから、その日の出演

者などあらかじめ調べても意味がない。つまり『出た

とこ勝負』。

 ところがところがなんと!私の大好きな三遊亭歌笑

と林家鉄平が昼席の中頃に飛び出してきた。歌笑は8

0歳近いはずなのに若いし元気も良い。現代落語もう

まいし古典落語はピカ一だ。

 現代落語はとても難しい。日常的な家庭、職場、政

治、経済がからんでくるのでうっかりすると座が白け

てしまって大失敗となる。その点古典は簡単。長く、

他の先輩演者によって磨きあげられたモノだからだ。

もちろん古典はそれだけ他の演者と比較され優劣が

簡単に分かってしまう。

 歌笑はもちろん現代モノと古典モノの両党使い。

現代モノは三代歌笑、2代歌笑から受け継がれた

爆笑モノを持つ。これが彼の強みだ。

 新宿末広亭、また来週行くぞ!

 

7か月ぶりの大東京に驚き

 夏場の那須滞在も終わって久しぶりに東京に

帰りました。川口から首都高にのり、途中から

池袋線の高架に入ると大東京が開けました。

 東京タワーやその他のタワー、新宿の高層

ビル群、丸の内あたりの高層建造物など、さす

がは世界一の大都会の展望に思わずうなりまし

た。私も田舎者ではなくこの巨大東京の住人の

一人だったのだ!

 かくして我が家の近くの哲学堂を曲がって中

野区松が丘、もう我が家だ。ところがこれが二

度びっくり。道路が狭くバスがやっとすれ違え

る。私はバックミラーをたたんだ。すれ違うの

が怖い。

 みすぼらしいのは道路だけではない。道路の

両側の家家も平屋か2階の木造の古い家。バス、

いやバイクが突っ込んだだけでこの小家屋は崩

れそう。

 あの、先刻見た大東京の巨大ビル群はどこだ

ったのか。ああ、これが格差だなあ!

 

三太郎の日記、つづきのつづき

 日記というからにはその人の日常生活が書かれて

いるはずです。それが三太郎の日記にはまったくな

しです。何を食べ、だれと会い、どこに行ったか、

などなど。

 この日記ははじめから自分の哲学的分析、他者

との哲学的会話だけが延々とつづきます。察する

にこの哲学者は一日中部屋にこもり哲学的思考を

しているらしい。

 食事もせず、家族もなし、友人や親せきもなし。

ただただあるのは哲学思考。それも多くは自分自身

の哲学的分析。そんな分析など私個人に何の興味も

ない。これがアインシュタインが行った自分分析な

ら興味もあるがこの哲学者の自分分析などちっとも

興味がない。

 したがってもうヤメタ。

三太郎の日記のつづき

 三太郎の日記はよく読むとよく分かるところ

もある。

 『僕は自分の(が)つまらない者であること

を忘れたくない。しかし自分のつまらないこと

さえ知らぬ者に比べれば僕ら何という幸な。。。

自分のつまらないことを知る者はつまらない者

でなくなるか。。。。』

 言ってる意味はよく理解できるではないか。

少なくとも論理は明白で簡便である。

 しかし多少深く考えると根本的な欠陥を含んで

いるのだ。それは『つまらない者』という言葉の

意味がまったく不明なことだ。

 私は常に、男も女も恋を知らない人、恋をバカ

にする人は一番つまらない人間と思っている。と

ころがこの三太郎の日記の著者の哲学者は自分を

哲学的に分析できない俗人のことをつまらない者

と言うらしい。

 それならそれで良いがそうすれば世間のほとん

どすべての人がつまらない者となる。

 

 

三太郎の日記

 科学哲学は論理も明快、言葉も単純なもの

だから大好きだが、他の一般哲学は文学部だ

けあって、難解を極めるから読む気も起らな

い。

 その文系哲学者の代表の一人、阿部次郎の

ことも名は知っていてもその本など手にとっ

たこともなかった。ところ不幸なことに阿部

次郎の代表作の一つ『三太郎の日記』が目に

とまった。

 三太郎という名前も庶民的ではないか。ど

うみても

文系哲学とは縁遠い感じがする。それに『日記』

というからには日常的で内容は簡単な感じがする。

 そこで私は一昨夜からこの『三太郎日記』にと

りついた。なるほど簡単だった。単に理解せず読

み飛ばす

ことは眠りにつくのによい睡眠薬となった。

 それが例えばこうである。

 。。。。。他の意識内容は皆シティンムングの姿

に於いて其背景を彩るのならば何の論もない。。。。

 およそ750ページの本が3冊であるが2夜かか

ってまだ17ページである。睡眠薬にしても多すぎ

ではないか?